2012年9月15日土曜日

歴史と自分、世界と自分~ベトナム&日本の9月2日~

1945年、9月2日。

それはベトナムが独立宣言を行った日。
そして日本にとってはポツダム宣言受諾後、
正式に降伏文書への調印をした日。
一部海外では第二次世界大戦が公式に終わった日とも言われている。

その2つの日が重なっている偶然は本当の偶然ではなく、
第2次世界大戦中の日本が仏印進駐による事実上の
ベトナム占領から起因する。

そして戦争終了が近づき、統治者空白(曖昧)の状態になった
機を狙っての独立宣言。

戦争の終わりと国の始まり。
しかしここから再度ベトナムの戦争は続いていく。

そんなことを考えるとイギリスの首相だったチャーチルの
「今は終わりではない。これは終わりの始まりでさえもない。
しかし、これはきっと始まりの終わりである。」
という言葉はふむ~と思ったり。

上記のようにベトナムと日本の2つの国だけでも
9月2日という日に異なった出来事と意味があるのに
世界というもっと大きな枠組みで見たときには
どれだけ素敵で怪奇で悲しい出来事があるのだろうと思わずにはいられない。

そしてこんな事実を知るたびに
自分はこの世界をどこまで知れるだろうかと好奇心高まる気持ちになる。









さて2012年、9月2日。この日はチェンジメーカー留学の最中だった。

これは本当に偶然だった。ただ、僕にとっては意味ある偶然だった。

日本人町があったといわれるホイアン。
そこに偶然集った日本語を学ぶベトナム人と日本人。

そしてまたおかしくも彼らが協働で
日本(文化)を売る体験をするという日。

1945年9月2日、過去を振り返ればベトナムの始まりであり、
日本の戦争の終わり。

そこから67年後の9月2日は戦争や国家の独立なんてものは
20代の僕たちにとって他人事に思えてしまう時代となった。

国の違いは確かにある。
文化の違いも確かにある。

ただ、確実に多くの人が自由になりつつある。
多くの人とって国を超えた移動が容易になる。
僕はそんな気持ちであるがどうだろうか。









そうなりつつある今、さっきと言っていることが矛盾するようでもあるが
より国を意識することが重要視されるようにも思う。

以前にも記したとおり、自分にあるものとは
なんであるかということが問われるときに
国とは自分の資源となる。

日本にいれば、多くの場合「自分」が問われるけど
海外にいると「日本人の自分」になる。

自由と権利を最大限行使するなら日本に留まる必要はない。
けれど日本(母国)にこだわる必要はあると僕は思う。

だからそれをどう活かすか。
だれとどうつながるか。

そこは考えすぎてもしょうがないと思っている。

だから直感的に行動して自分から発信して偶然を起こすことが大切だろうし、
その偶然に意味を持たすことが大切な気がする。

そんな9月2日という日と偶然の体験。

歴史と国と自分をつなぎあわせることで
より独創的な意味ができあがるような気がしてます。

だから、
誰かの理由じゃなくて自分の理由と直感で動くことが大切なんじゃないかなと。
人はよりローカルにマニアックに国を超えてつながれるんじゃないかと。
世界を広く見渡せば見渡すほど自分の役割が鮮明になるんじゃないかなと。

そんなことをぼんやり思ったりするのです。