2011年8月4日木曜日

娯楽から見えた、住むこと≒生活すること

久しぶりにボウリングに行ってきた。
ベトナム人学生も一緒に行ってきた。

なんと彼らはボウリング初めてだというではありませんか!!

そういや、、
ベトナム着いて2日目にボウリング行ったときもそういう子いたなーとか
サークル の飲み会の後はたいていボウリングだったなーとか
ボウルの上に座ってる店員の女の子を見て日本だったらクビだなーとか
いろいろと考えておりました。




その後、しばしゲームに興じる。

やたらと真剣な顔でテニスゲームをやる川村が
ヲタッぽく見えたのは言うまでもない。

子どももキングオブファイターズをガチャガチャやっとります。
格ゲーはまるよな。









そして今日はベトナム人に連れられ、ライブハウス?に行ってきた。
途中飛び入りで歌う人などもおり、カラオケではないのだが、
プログラムが決まっていないライブハウスって感じだろうか。

この柔軟さというか臨機応変さというかグレーな部分が多い
システムにはある種、器の大きさ、ゆとりを感じさせてくれる。




ボウリングもゲームセンターもライブハウスもいわゆる
娯楽とかエンタテイメントっていう分野なのかなって思うのだが、
こういう仕事ではない場所で見るベトナム人の素顔は刺激になる。

ベトナム人ってどんな人なのかと問われる時、
ほとんどその意図は仕事人としてどうなのかということになる。

ただ、仕事場で見せる姿が僕たちの素顔だろうか。
そこが僕たちの性格、人間像を全て映し出しているだろうか。

仕事しているだけでも飲みにケーションするだけでも見えてこない
何に没頭し、何に怒り、何に心安らがせるのかという感情を
娯楽や遊びという日常から垣間見ることもベトナムを
理解するために大切な行為だと思う。

多くの日本人にとってベトナムに居る目的は
仕事であるから、それは生活すること、暮らすこと
と同義ではないように思う。

根本的なコミュニケーション、価値観、文化のずれというのは
日常を共有していないことにあるのではないだろうか。

そのずれを少しでも矯正するために、同じ飯を食ったり、
同じ移動手段を使ったり、同じ言葉を使ったり様々なものを重ね合わせていく。

しかしそれらの多くは仕事という大きな枠組みの中で
ずれを合わせているだけであり、仕事ではない遊びや娯楽という
枠組みの中で同じ何かを共有するということは少なかったように思う。

うん、要はベトナムに住むことで得られる理解と
ベトナム人と同じ生活をすることで得られる理解は
違うってことなんだろうな。当たり前だけど。

生き活きしないとねー。

ということでこれからは
もっと遊びにでかけんといかんですわ。



















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