と僕は思う。
まず値札がない。
もちろんこぎれいなスーパーマーケットにいけば
値札がついているが、基本的に言い値の交渉社会である。
全てに値札がついている社会というのは
ある種受け身な状態であり、
これが一体どのような価値があるのか?
ということを主体的に考える機会を奪っているともいえる。
と僕はぼったくられながら改心したことを覚えている。
そしてこっからが本題であるが、もう1つの衝撃は接客である。
日本のサービスに慣れきってしまった人なら
必ず思う「これでいいんだ・・・」という唖然・呆然の数々。
今まで僕が街中で納めてきた写真をいくつか紹介したい。

UNIQLOさんをパクッってるのではないかと思われるUNICOLさん。
しかしレジに店員がいない。。と思いきや、、

窓際でウォークマン片手に音楽聴きながら黄昏ていたところを撮影。
しかし、一向に気づかないので、そのまま帰りました。

よっぽど立ち仕事が疲れたのかくたびれるマスコットさん。
ここ一番お客さんが通るエリアです。
しかしもう疲れましたオーラが出まくっています。

近づいて写真撮ろうとしたらピースしてくれました。
が、一向に立とうとはしませんでした。

商品の上で昼寝するおばはん。
昼休み時に市場へ行くと大体見れる風景です。

ボウルの上に座ってゲームを眺めるボウリング場のスタッフ。。
元フタバボウルのアルバイトスタッフである私にとっては
信じられない光景です。。

別にやる気ないわけじゃないと思うけど、
やる気なさそうに見えてしまうマスコットさん。
やる気あったならごめん。

旅行者である友人の帽子を勝手に取ってかぶり、
こちらが望んでもいないのに写真とってくれと希望するレストランスタッフ。

※特に意味はない愛嬌あるおやじ。
以上を踏まえて僕がまず思ったのは・・・
お客様は神様じゃなかったんですね。
ということ。
もうね、極上の朝礼とかスマイル0円とか
ホスピタリティとかそういった根本的なあり方を
ひっくり返してくれますよね。
ただ僕はこういったところに接客の発展系ヒントがあると思っていて
日本でよくある無機的かつシステマチックな接客をしているお店は
逆にベトナムから自然体で接するということを
学んでもいいんじゃないかなと思う。
そして心から人を思うということも。
ここに載せてある写真はあくまで一部であって、
実際にもっとベトナム人と接してみれば
客と店員というだけではない、
人と人とのコミュニケーションがあるということも感じてもらえると思う。
これはもちろんよくもあり悪くもあるだろうが、
僕は客と店員としての会話しかできない希薄な関係性よりかは
一人の人として話をしてもらえるほうが楽しいと思う。
慣れた今となっては日本よりこっちのほうがいいなと思える時もある。
(まあ時と場合にはよりますが。。)
いつでも笑顔、配慮ある気配り、お客様の求めることを察知することなど
日本のクオリティは素晴らしいなぁ心地いいなぁと思うことは山ほどある。
ただ、一歩外国に出たときはその違いを受け入れ
楽しんでみる、あえてここによさがあるとすれば
何なのかを考えてみることが外国に行く意義の1つではないだろうか。
あれはダメ。こっちがいい。
ではなく、これはこれでいい。
でいいんじゃないだろうか。